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愛知県豊橋市の郷土史家・豊田珍彦氏が著した「豊橋地方空襲日誌」=2024年6月8日、愛知県豊橋市の市中央図書館、戸村登撮影
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 太平洋戦争の末期、米軍の空襲を約7カ月にわたり、一市民の立場から記録し続けた人がいる。愛知県豊橋市の郷土史家・故豊田珍彦氏(1882~1965)。書き残した「豊橋地方空襲日誌」に資料や解説が加わり今春出版された。とりまとめた愛知大学の阿部聖名誉教授(70)は日誌について「空襲や国民生活の一端を伝える重要な資料だ」としている。

 阿部名誉教授は、豊田氏が書きつづった空襲日誌6冊を米軍などの資料や当時の新聞記事などと照合し、「『豊橋地方空襲日誌』を読む―豊橋から見た米軍の対日空襲の記録(1944・11・23~1945・6・20)」という書籍にまとめた。

 豊田氏は豊橋市の上空を通過する敵機(写真偵察機・気象観測爆撃機・爆撃機)の来襲を伝えるラジオの情報に加えて、防空活動など戦時下の自らの暮らしを空襲日誌に記録し続けていた。

「挙国一致で戦う」から「戦争に希望持てない」へ

 日誌の冒頭、1944(昭和19)年11月23日、当時63歳だった豊田氏は「挙国一致、完璧の対空防備を以ってこの醜敵と戦うのだと思うと地沸き肉踊る思いがする。以下、次々にその戦う姿を有のまま書きとめて見よう思う。おのが命ある限りに於いて。」と力強く日誌を書き始めた。

 ところが、日本の敗色が濃くなるにつれて、その記述は懐疑的になっていく。

 45年5月14日の日誌には…

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